広路(函館市)

東雲広路函館は大火の多い街であったが、復興のたびに街並の基盤を整えていった。1868(明治11)年大火後には西部地区の街区改正で、道路や坂道が直線状に拡幅され、1869年大火後には大規模な火防線として幅20間(約36m)の基坂や二十間坂が誕生した。さらに1934(昭和9)年の函館最大規模の大火復興では、当時日本最大幅員の30間と20間幅の緑樹帯と命名された街路が防火帯として設置され、緑樹帯の交点や起点には公園や鉄筋コンクリート造の復興小学校が配置され、防火都市の基盤を整えていった。函館の広路(ひろじ)は [続き・地図]

大沼公園( 七飯町)

大沼公園大沼は、明治以降北海道の景勝地として注目され、1904(明治37)年にはすでに道立公園に指定され整備が始まったが、1914(大正3)年に本多静六博士により公園整備計画が策定され、本格的な整備が進められた。また、1915(大正4)年には新日本三景に選定されている。1931(昭和6)年制定の国立公園法による国立公園指定は見送られたものの、その後の国定公園制度の創設にあわせて、1958(昭和33)年に国定公園に指定され現在に至っている。 [続き・地図]

香雪園(函館市)

香春園香雪園(こうせつえん)は、函館市の都市公園である見晴公園の一角を指し、明治の豪商岩船峯次郎が巨費を投じて作り上げた、道内には珍しい本格的日本庭園である。明治末期に建てられたと考えられる煉瓦造の温室や本格的な茶室のある園亭も残されており、近年緑の相談所も併設されて、多くの市民に親しまれている。京の庭師の手による造作や、本州から運ばせた大量の樹木は現在も当時のまま維持されているが、13haという広大さや、当初から運動場や園遊会などに利用されていた公開された空間であり、庭園とも公園とも違う不思議な雰囲気を持っているといえよう。
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小樽公園(小樽市)

小樽公園明治33年(1900)に開設された。設計は日本初の職業的公園設計家、長岡安平(1842-1925)である。そのレイアウトは公共施設を園路で結ぶという、現在の公園設計に共通したものである。園内中央の丘には大正13年(1924)に市民から寄付された顕誠塔が建ち、道内唯一の屋外能楽堂と主園路で繋がれ、公園全体に秩序を与えている。植生は市民による植樹が中心だが、北側斜面には開拓以前からの原生林も現存する。 [続き・地図]

函館公園(函館市)

函館公園函館市青柳町にある函館公園は、1874(明治7)年に開設され、さらに1879( 明治 12)年、函館駐在の英国領事 リチャード・ユースデンの呼びかけで、大整備が行われた公園である。浅田清次郎が設計施工館等の現場工事一切の責任者となり、渡辺熊四郎ら財界人は樹木や石材等を寄贈し、開拓使函館支庁の官吏や一般市民らは労働力を提供した。入り口に近いロータリー形花壇に代表されるように、北海道初の洋式公園でもあった。「市民の手作り」による日本初のパートナーシップ型都市公園としても貴重である。 [地図]