日本大通り(横浜市中区)
慶応2年(1866)の大火後、横浜公園の整備とあわせてブラントンの設計で明治3年(1870)に象の鼻波止場と横浜公園を結ぶように建設された道路である。県庁をはじめとする高格の建物が建ち並ぶ目抜き通りであり、車道にゆとりある歩道と緑地を併設した近代街路である。関東大震災後に幅員が削られたが、近年再整備によって当初の姿に近い形を取り戻している。 [地図]
地域:関東
慶応2年(1866)の大火後、横浜公園の整備とあわせてブラントンの設計で明治3年(1870)に象の鼻波止場と横浜公園を結ぶように建設された道路である。県庁をはじめとする高格の建物が建ち並ぶ目抜き通りであり、車道にゆとりある歩道と緑地を併設した近代街路である。関東大震災後に幅員が削られたが、近年再整備によって当初の姿に近い形を取り戻している。 [地図]
地域:関東
西洋史学者の村川堅固が大正期に設け、同じく西洋史学者となった息子の村川堅太郎に引き継がれた別荘とその庭園である。現在は我孫子市が所有し文化財として管理している。南に手賀沼を望む台地上に立地している点に特徴があり、近代の別荘庭園の典型例として評価される。 [地図]
地域:関東
滄浪泉園(そうろうせんえん)は、明治・大正期の実業家で、外交官や衆議院議員なども歴任した波多野承五郎(雅号・古渓)の別荘庭園である。戦後に一部改変されているが、武蔵野の国分寺崖線の「ハケ」の立地特性を活かし湧水を取り入れている点に特徴がある。 [地図]
地域:関東
加賀”百万石”の前田家の前田利為侯爵が昭和初期に本郷から移転して設けた本邸跡が現在は都市公園(目黒区立駒場公園)となっている。公園の一部に昭和初期竣工の洋館・和館に付随する洋風庭園、和風庭園が良好に残存する。 [地図]
地域:関東
明治期に貴族院副議長などを務めた政治家・黒田長成が、旧小田原城跡地の一画に造営した別荘の庭園。かろやかな数寄屋趣味の母屋に調和するよう、庭園には数石の庭石をあしらった素朴な芝生の庭を設け、小田原城三の丸外郭土塁を敷地内に留めたことから相模湾へのすぐれた眺望性を特色とする。単純な芝生の構成と眺望性は、東京や別荘地の近代庭園に共通する特色であり、清閑亭(せいかんてい)庭園はその典型的な事例といえる。 [地図]
地域:関東