赤穂(あこう)城は浅野長直の命により近藤三郎左衛門正純が1661年に完成させた城であり、本丸大小の池泉、二の丸には大規模な錦帯池をもつ池泉回遊式の庭園が存在した。現在は発掘調査、復元整備がなされ、往時の大名庭園の姿を今に伝えている。後世に改変されることの多い大名庭園の中で、本丸二の丸とが一体となった庭園の姿や当時の庭園利用を知る上で、極めて貴重な庭園であり、学術性芸術性の高さが評価される。また、舟遊びや茶房など当時の利用形態を体験できるなど、遺跡の活用の観点からも高く評価できる。 [地図]
地域:近畿・中国・四国
浦戸湾の河口を結ぶ、県運営の小型輸送船。以前は乗用車を搭載していたが、現在は(平成14年~)人と自転車、自動二輪のみを運んでいる。船着き場である御畳瀬(みませ)は、現在も古くから漁業で栄えた地区であり、漁村の風情を留めている。かつて船舶の往来が盛んであった浦戸湾の名残を残す景観である。地域住民のみならず、浦戸湾を渡る遍路の交通手段にもなっており、地域に根差した歴史性と社会性が評価される。 [地図]
地域:近畿・中国・四国
土佐藩家老であった野中兼山が農業用水路として整備した水路と、その周辺に植えられたアジサイ、付近の水田地帯から構成される春野(はるの)地区の街道景観。昭和50年頃、住民有志が10数本のアジサイを植えたことが契機となり、次第にその本数が増え「あじさい街道」と称されるようになった。四国八十八箇所三十四番札所種間寺を訪れるお遍路さんへのもてなしと、水路を整備した野中兼山に対する感謝の念から、地域住民が主体となり創出してきた景観であり、その社会性が高く評価される。 [地図]
地域:近畿・中国・四国
浦戸湾にそそぐ国分川(こくぶがわ)の河口に形成された干潟。オサガニ類やシギ・チドリ類、サギ類などの動物の重要な生息地となっている。高度成長期までは浦戸湾には広大は干潟が各地に存在したが、現在は、護岸整備や埋立によりほとんど残っていない。そのなかで、本干潟は浦戸湾に残存する数少ない場所であり、かつ干出する面積も比較的大きく、希少性が高く評価される。 [地図]
地域:近畿・中国・四国
三又は、江戸初期に土佐藩家老であった野中兼山(のなかけんざん)が農業用に整備した用水路である。このおかげで、当地は豊かな穀倉地帯として発展した。3つに分岐することから、三又(みつまた)と称されている。昔そのままの石積みが残り、現在でも農業用水として使用されている。建設当時としても高い技術によって造られている水路の周りには、これによって開発された水田が残る。水路(三又)と水田、さらに周囲を取りまく林が一体となり、この地域を代表する「生業の景観」を構成している。 [地図]
地域:近畿・中国・四国
< 22
23
24
25
26
27
28
>