大正時代に、豪商・四代目齋藤喜十郎が夏の別邸として築造したもの。松本亀吉が作庭した。新潟市の海岸部に位置する海岸砂丘堤を生かし、さらに小山と池泉を重ねて奥行き感のある池泉回遊式庭園となっている。新潟の蒸し暑い夏を快適に過ごすため、庭園の林を抜けてくる海風とクロマツほかの常緑樹がつくる陰影、滝の水音など、様々な工夫が取り入れられている。立体的な庭園であるがゆえに1、2 階それぞれの広間から見られる景観の違いも秀逸である。またこの庭園は、存亡の危機に遭ったとき、 [続き・地図]
地域:中部
北方文化(ほっぽうぶんか)博物館の一部となっている当所は出雲崎町西山油田で富を得た清水常作が別邸として1895(明治28)年に建築し、後に六代目伊藤文吉が購入して昭和初期にかけて整備したものである。庭園は地元の庭師、初代後藤石水の作。新潟には珍しい枯山水庭園で、主庭には枯池、枯流れ、後方に枯滝が組まれている。枯池から建物の間は、新潟には珍しくノシバ植栽による明るい庭園を演出しており、現代の庭園につながる作庭といえる。敷地内にある洋館には、東洋美術史家で書家、歌人としても著名な [続き・地図]
地域:中部
清水園(しみずえん)は十万石の大名、新発田藩主・溝口家の下屋敷の庭園である。新潟には数少ない風格と優雅さのある大名庭園の代表といえるだろう。敷地の横を流れる新新発田川から取り込んだ水による池を中心に、二段落ちの滝石組、洲浜と岬灯籠、長尺の石橋など、様々な風景要素を取り入れながら回遊式庭園が構成されている。大名庭園らしく威風堂々とした表門と赤松列植によるアプローチも見事である。当初の作庭者は縣宋知と伝えられ、また昭和の修復を行った田中泰阿弥は茶人でもあり、この時、 [続き・地図]
地域:中部
渡邉(わたなべ)家は、江戸中期(寛文年間)に村上藩の郡奉行から現地に定着し、酒造業・回船業を営んで隆盛を誇った。庭園は、その後三代目善延もしくは四代目善永の時代(享保年間)に、作庭されたと伝えられており、京都より遠州流の庭師を迎えて築庭されたといわれている。庭石には紀州・小豆島・鞍馬石などが多く使用されている。雪深い地であるため、降雪を配慮してか高木が少ないが、それゆえに石組が際立って見える。庭園の中心をなす池泉は心字型であり、一ノ山には不動石を立て枯滝を表している。 [続き・地図]
地域:中部
貞観園(ていかんえん)は江戸時代から続いた旧高柳町の庄屋、村山家の庭園である。江戸時代中期に九段仁右衛門・藤井友之進により築庭された後、数回手を加えられ明治初期に現在の姿になったといわれている。1932(昭和7)年に田中泰阿弥により修復。裏手の山より地域の水田へ引いた疎水の一部を庭園に引き込み、二つの滝、池を配した池泉回遊式庭園である。自然の地形や水、背後の森を生かし、また雪に強い樹種選定により冬季の雪吊りも最小限にとどめ、自然と庭園造形がみごとに融合した名園である。 [続き・地図]
地域:中部
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